平尾山荘は野村望東尼が40歳の時に夫と共に隠棲(いんせい)した庵で、出家してからは勤王志士たちの隠れ家や密会の場所として使用されていた山荘です。
野村望東尼(本名モト)は幕末に活躍した女流歌人で、歌集「向陵集」「姫島日記」などを著した人です。もう一つ尊王志士の庇護者という顔も持っていて、彼女を有名にしたのはこちらの方かも知れません。
望東尼の生涯は波乱万丈で、福岡藩士の家に生まれ、野村家の後妻に入った後、夫に先立たれ出家をして向陵招月望東尼と称し、歌を詠む傍らで勤王派の志士たちの庇護者となりました。
しかし福岡藩は佐幕派が圧倒し、望東尼も弾圧され、高杉晋作に救い出されるまで11か月の間姫島に流されることとなります。その後は山口に移り、病の高杉を看取った後、自身も明治維新を見ることなく慶応3年に享年62歳で亡くなっています。
現在の建物は明治末期に復元されたもので、茅葺の屋根が美しく、付近は公園として整備され、福岡市によって管理されています。周囲は住宅街ですが、当時は山の中だったのだそうです。
公園の入り口を入ると望東尼の胸像がありました。どこまで本人に似ているのかわかりませんが、意思の強そうな表情をしています。
公園を横切ると山荘が見えてきました。
望東尼の半生が記された石碑もあります。
山荘の玄関です。さほど広くなく、隠れ家という言葉がぴったりです。
中もやはりこじんまりとしています。この部屋で高杉らが倒幕について語り合ったのかも知れません。
上の写真の左側には小さな部屋が二つ。高杉をはじめとした志士たちを匿うのに使用されたのでしょうか。
再び表に出てみました。脇には小さな庭がありました。
裏に回ると井戸があります。良質な水が現在でも涌き出ていて、以前は水をもらいに来る人もいたそうです。
屋根の萱は美しく整備されていて、維持するだけでも大変そうです。
最後に正面から撮ってみました。
本当にこじんまりとした小さな建物ですが、もしかしたらここで交わされた会話が後々の倒幕の気運を醸成したのかも知れません。
そんな、歴史的にはとても大きな存在かもしれない、けれど現在では住宅街に佇む小さな山荘を訪ねてみた、というレポートでした。
- アクセス:西鉄バス「山荘通」バス停から徒歩5分
- URL:http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/